日本障害者ライダーズ協会

AT YOUR OWN RISK は私も好きな言葉ですなん


重い障害を背負っても、尚バイクに寄り添って生きて行こうとするなら、誰も止めは出来ないだろう。ただ彼等がここまで来るまでの、苦悩・不安はヘルメットの下に隠れている。  ライダーとして復帰出来たからスゴイ、出来ないからダメっていう単純な事ではない。  

トライクは新しい潮流として、欧米でも「障害者ライダー」の方に人気というより主流になりつつある。
いち早く取り入れた彼等は「新しい時代の先駆者」である。


浜松市のTANさんの物語
GSX−R1100からSKYWAVE 650 トライクで復帰  脊髄損傷

Bike Day


事故のこと1999年12月
会社に入って十年もすると働き盛り、というより働かされ盛りになってきます。秋も深まってきた頃、出張で1ヶ月余り家を空けていました。 帰ってきて最初の休日、愛車のエンジンを掛けてみると「ギュルギュルギュル…」バッテリーが上がりかけている。「こりゃ充電せにゃ」というんでどこがいいか考えました。 なるべくGO-STOPが無く長く走れるルートがいい。 そこで浜名バイパスから伊良湖岬の往復にしました。 浜名バイパスというのは遠州灘の海岸線に沿って直線の続く自動車専用道路。 最高速アタックにはもってこいです。その日も目を皿のようにして前方を見つめ、すっ飛ばしました。何キロ出てたかはとても言えません。バイパスの終点を降りると、今度はだらだらの一般道です。 大体が直線ですが時々カーブがある。その内の一つ、クランク状のS字カーブでした。先ほどの無謀のせいでスピード感覚は鈍り、ブランクの為,冷えた路面とタイヤとのミューの感覚も無くなっていたのでしょう。

ちょっとケビン・シュワンツごっこをした瞬間、ハイサイドを起こした車体から放り出された私は、殆ど真っ逆さまにアスファルトに叩きつけられました。フルフェイスヘルメットはもとより、上下共に革で固めていましたが、「垂直落下式&投げっぱなしブレーンバスター」ではなす術もありません。私はアスファルトに打ち付けられ、マシンはフラフラと暫く自走してガードレールに寄りかかるようにして停まりました。

バイク事故の場合、「マシンの損傷とライダーの怪我の度合いは反比例する」といった人が居ますが、その典型です。バイクは殆ど無傷、私は路上から動けない状態。後続の車の運転手さん
(なんでも、その前に私がバイパスで猛スピードで追い抜いていった車だそうです)が駆け寄ってくれ、私は家族の連絡先を伝えバイクを脇に寄せ、警察を呼ぶといった処理をお願いしました。

と書いていますが、実は事故前後の状況については全く記憶がありません。 事故直後ではなく、事故「直前」から記憶がないのです。後続車の方に連絡先を伝えた云々についてもまったく覚えていません。ハイサイドだとか放り出された状況なども後からの推定です。 「後退性記憶障害」とかなんとかいうらしいのですが、自己防衛本能の一種なのでしょう。もし、あのときの一部始終をありありと覚えていたら、きっとその後、夜な夜なうなされていたに違いありません。

夜になって、私が担ぎ込まれた病院に家族が駆けつけてきました。集中治療室のベッドから私が発したのは「面目ない」の一言でした。



事故以前の私
自動二輪免許を取ったのは大学入学の間もない頃でした。 四輪との同時教習。その頃は特にバイクに対する情熱てものは特に無くて、どうせだったら一緒に取っちゃえ、みたいな。

免許取得して即、入手したのがホンダVTZ。バイク便御用達のやつ。バイク便のアルバイトもやってましたからね。あの機種に関しては車幅感覚はミリ単位でつかんでました()。就職してからはスズキのバンデッド250。しかしどうも飽き足らなくて、仕事の合間に教習所に通い、大型二輪免許を取りました。そして迷った末に選んだのがGSX-1100油冷最終型。


私の場合、なんでバイクだったのかというと、バイクが好きだったというより「旅」が好きだったんです。もう休みになれば北海道から四国から全国を旅して回りました。 テントと寝袋積んで旅の道具として、バイクが最も適している、と思ったんです。キャンプの道具さえあればどこにでも行ける。どこにでも停められて何処にでも泊まれる。時刻表を心配する必要も無いし予約を取る手間も要らない。 一番自由な移動手段。キャンプ場に行けばバイク乗りの仲間が居て、夜は焚き火を囲んでビール飲んで馬鹿話。 それがなにより楽しかった。



リハビリ
怪我は「胸椎4番完全損傷」。
胸(ミゾオチ)の当りから下がまるっきりダメ、という状態です。

どんな感じだったかは相田みつをさんの本や「リアル」なんかに描写されている通りですので省きます。
もちろん一生歩けなくなると聞いて相当にんだこともありましたが、九州のサワグチさんのHP(リンクに有り)なんかには随分助けられました。「生きてるだけでまるもうけ」というやつです。


最初に病院のベッドの上で気がついたとき、下半身がまるで言うことをきかないことに気づき、
「あ、これは脊髄をやっちまったな」とすぐに自覚しました。
ある程度の予備知識はありましたから。いろいろ逡巡するうち、ふと「そう考えている自分」に気づきました。
頭はやられていない。
自分は生きている。

怪我をしたことによって失ったものは沢山あります。
でも、健常だった頃の自分と比較して、あれが出来なくなった、これも出来ない、と引き算で考えることは止めたんです。もういったん「ご破算で願いましては」です。
ゼロから。 死んでいたかもしれない自分から。

手が動く。 それならば、今の世の中、地球の裏側とだって一瞬にしてコミュニケーションが取れる。
内臓に支障は無い。 となれば今まで通り食べたいものが食べられるし、好きな酒も仲間と飲める。
聞くところによると車を運転することもできるらしい(この時点ではまさかライダー復帰が可能などとは思いもしませんでしたが)。
事務仕事ならば仕事にだって復帰できる。
むしろ「車椅子の上」という視点を得たことで、他の人にはわからないことを世の中にフィードバックして、役に立てることが出来るかもしれない。
そうやって、「出来る」ことを足し算で、積み上げ式に考えることにしたんです。

一言で言うと、「俺は依然として俺なのだ」ということです。
これで、自分が今ここで生きていることの意義(レゾンデートルってやつですか)、が見えてきて、社会復帰への意欲が湧いてきました。



国立リハビリテーションセンター

本当に死んでても全然不思議じゃなかったんですから 背骨の補強を前後からやった後、リハビリには所沢の国立リハビリテーションセンターを選びました。ここは入所希望者がウェイティングリストを作って待っているという「障害者のエリートコース」なんだそうです。実際、頚髄損傷を負っているにも関わらず「出たらスキューバするんだ」とか、高校生のくせに「三菱のFTR買いました。手動装置付けて免許取ります」なんていうアクティブな連中ばっかり。壁には「車椅子のスピード出しすぎ注意」の張り紙がしてある。逆に打ちひしがれてしまって病室に引きこもってリハに出てこないような人は何時の間にかいなくなってしまう、そんなスパルタンな所でした

「寝返りの練習」から始まって、ベッドやトイレへの乗り移りの訓練、ある程度進んでくると体育館へ出てスポーツトレーニング。 最初、車椅子にロープをくくりつけ、車のタイヤを引きずる訓練を見たときには冗談かと思いましたよ。軽自動車のタイヤから始まって、しまいにゃダンプの15キロタイヤになるんですから。教官「はいこれで体育館5周!」 ひぇーっ! 20メートルはあろうかというスロープ登り、スロープ下り(車椅子キャスター上げ付き) 筋トレはいうに及ばず、水泳リハでは船外機からの激流に逆らっての犬掻き!
リハの最終課題は「床トランス」。つまり床から車椅子へ自力で上がること。

それがなんとか出来る様になって、国リハを出たのは五ヵ月後のことでした。 そして事故から十ヶ月、ついに元の職場に復帰することが出来たのでした。


バイクへの思い
不思議なもので、事故のせいでバイクを恨んだことは全くありませんでした クラッシュライダーの中には、「もうバイクは見るのもいや」という人もいますが、私の場合バイクにはなんの責任も無く、100%自分が悪い事故であったせいもあって、車椅子になったこととバイクとは全く切り離して考えていたのだと思います。 入院中に春になり、GPが始まりました。 病院のテレビでは衛星放送が見られなかったため、家族に「南アフリカGPが放送されるので、録画して持ってきてくれ」と頼んだ所、ほとんど狂人を見る目つきで見られたものです。

元々バイク関係の仕事をしていたこともあり、復帰後も関係の雑誌は大体目を通していました。 元GPライダーの青木琢磨氏のトライクを「ロードライダー」誌で目にしたのは事故の二年後のことです。「この手があったか!」と思いました。 青木氏の障害レベルを調べてみると胸髄の7番。私より下です。 もちろんプロライダーの体と一般人である私の体とは違いますから(ほんと、プロのライダー連中って、鍛えたすごい体をしてるんですよ)、一概には言えませんが「ワシにできんことはないはずじゃ!」と決め付けて計画を練り始めました。

ベースに選んだのはデビューしたてのスズキ・スカイウェイブ650今に至るも世界最大のスクーターです。 オートマなら足を使わなくて済むし、「マニュアルモード」なんていうものもついている。ファイナルがギアトレインというのもしびれました。青木トライク製作のサクマエンジニアリングさんに問い合わせてみると、「トライクへの改造可能」という力強い返事。即座に発注しました。 この機種によるトライクの世界第一号です。


私のトライク
サクマさんへの私の注文は次の通り。
@可能な限りのローダウン。 たまたまサクマさんにおいてあった青木号に乗ってみようとしたのですが、なかなかシートに上がれない。 で、リアはサスの溶接位置変更とタイヤの扁平化、フロントはEZステアを入れることで副次的に下がりました。もっともこれは乗り心地との兼ね合いがあって、その折り合いをつけるのが難しい。
サクマエンジニアリング工場にて

A車椅子ラックについてはやはり青木号での経験から、ヒンジを使って跳ね上げ式にしてもらいました。 乗るときには右手でハンドルをつかみ、左手はシート上について、よっこらしょと車椅子から乗り移るわけですが、その際車椅子を可能な限りトライクに寄せておきたい。そのための工夫です。

B必需品はバックシステム。 電動です。 いわゆる押し回しはできない訳ですから、これがないと車庫入れすらできません。当初メインスイッチをかなり高い位置に付けてくれていたのですが、かっこ悪いので手の届く限りの低い位置に変更してもらいました。バックするときにはこれをONにし(四輪者並みに警告音が鳴ります)、ハンドルに設けたボタンを押すと後退します。


Cそしてサイドバイザーこれは横Gが掛かったときに足が振り出されるのを防ぐ、ポケットの役割です。

D今後の課題としてはバックサポートとシートベルト、シートをバケット式に変更、それに伴うハンドル位置の変更、車椅子ラックの強化、などを考えています。

お気づきだと思いますが、これらのカスタム項目は、ひとつとしてファッション目的のものがありません。 全てが「必然」によって改造されています。 「スクーターファン」なんかに登場するコテコテ見た目カスタム車とは訳が違うのです。



バイカー復活へ

私の思惑では、茨城のサクマさんから所沢のリハビリセンターに納車してもらい、そこの教習施設で練習した後に自走して浜松までもってくる気でいました。 しかし国リハからは「そういう目的の施設ではないので」とのことですげなく断られてしまいました。

とはいえ、全く未知の乗物をいきなり公道で走らせるには不安がある(これはその後其の通りであることが実証されるのですが)

そんな訳で、仲間のバイク乗りが作っている安全運転クラブに入り、近くの教習所を借りて練習をすることにしました。

掲示板(2005-03)に載せたように、乗り降り、発進、停止、車庫入れ(これを練習するバイカーも珍しいでしょう)などを行い、次にカーブです。 果たしてこのマシンで、どれだけの速度でどれだけのカーブを曲がることができるのか。その限界を知っておく必要があると思ったのです。 なにせ、世の中に「脊髄損傷者のためのトライク運転マニュアル」なんてものは存在しませんからね。自分で見極めるしかありません。

そこで教習所の一つのコーナーを使って20キロ、30キロと速度を上げていきました。 40キロを超えたあたりです。 イン側のリアホイールが浮き上がりました。 あっと思うと尻がシートからずり落ち、両手でハンドルにしがみついてぶら下がった状態になりました。 となるともうアクセルを戻すことも出来ない。 そのままコース外の植え込みに突っ込み、落車しました。 左膝に付けていたプロテクターがちぎれて落ちている。 しかし障害のおかげで()痛みは全く感じない。


その日はまたトライクに乗って帰りましたが、翌朝になってみると左ひざが異様に腫れている。病院にいってレントゲンを撮って見ると、大腿骨にひびが入っていました。 結局チタンの補強材とボルトを6本入れて入院二週間。

場所が教習所であったこと、周りに仲間が居た事で大事に至らずに済んだのです。 今後トライクなりサイドカーなりで復帰しようというカムバックライダーの方、最初はそうした安全環境での習熟運転をくれぐれもお薦めいたします。私のような「バカの上塗り」をしないために。
仲間と教習所を借りて練習

生きていく
今は一人暮らしをしています。  「自立した」という実感が欲しいものですから。 家はそれなりに改造しました。 それをやらせてくれる大家と不動産屋を探してくれたのは家族ですが、結構大変だったようです。

トライク、 残念ながらしばらく乗っていません。 例の膝の怪我のとき、ずーっとあお向けに寝ていたせいで尻に褥創を作ってしまい、さらにそこから感染症を起こして5ヶ月近い入院を強いられてしまったのです。 帰ってみたらバッテリーが完全にあがっていました。

しかしこのサイトに出会った所為で、またムラムラしてきました。

テントと寝袋、コッヘルとストーブ、知らない土地の空から空。

ひょっとするとどこかのキャンプ場で、これを読んで下さっている誰かとお会いすることがあるかもしれません。その時はヨロシク。

JDRA



青木琢磨号と共に・・・・・



■国立身体障害者リハビリテーションセンター

■サワグチさんのHP 背中に一本

TANさんにメール転送します。

人生を「足し算で生きるか」ずっと「引き算を暗算しながら生きるか」? 勿論時々により入り混じることもあるでしょう。バイク事故で一瞬にして人生が変わってしまう。多くの方が働き盛りであったり、父親であったり、学生であったりします。
入院中には、見舞い客から「命があっただけでも・・・・」と繰り返し言われますが、 その時の自身のキャパシティーが受け入れない場合もあります。でもいつかは人は立ち直らなければなりません。 ポジティブに「足し算」出来る事は素晴らしいことだと思います。   「生きてるだけで丸儲け」  生きている方が辛いことがあるかもしれませんが、一人でも多くの方が笑って暮らせるように・・・・・・・・。                                  平成17年4月1日 記載



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