新しいビジョン




2006年10月30日

社会全体が変わらないと、バイクの免許も変わりません。つまり運転免許制度全体の問題として捉えていかないと必ず矛盾が起きます。そして今は、制度が世界的に見てどうなのかという争点も可能になりました。


新しい時代・・・・・・・

■障害者団体は「被害者団体」ではない。


■多くの障害者ライダー氏から戴くメッセージの主旨は「障害者ライダーに甘えはいらない」ということです。言い換えれば「障害者ライダーは弱者ではない」という自らの表明であります。少なくとも一般道路を他の車両と混在し自由に走ることは危険負担もまた同様だということです。当たり前のことかもしれませんね。

それでも「弱者」だとおっしゃるなら、どうかバイクに「障害者マーク」を貼って端をゆっくり走行下さい。
上記の主旨をふまえ、免許取得に関しても正々堂々と皆さんが、時に好奇の視線に耐えながら臨んでおられることは心から尊敬に値します。未だ社会の色々な場面で確かに「障害者差別」や「偏見」があることに加え、バブル崩壊といわれた長い年月は障害者が就職するとこともままならぬ厳しいものでした。いわゆる社会進出が出来ず無念の思いの方も多かったのではないでしょうか?


■しかし法律から「欠格条項が削除」されたことに拠り、障害者がバイクに乗ることは既に普通になりました。レース活動されている方もいます。自動車もそうです。船舶免許もOKです。多くの分野や専門職に障害者が進出してゆくでしょう。(過渡期特有の周知不足や配慮不足からのトラブルはありますが)
障害者医師だと騒ぐ必要も、障害者臨床検査技師だと自慢することもありません。普通の時代の到来。
我々の目的も同じ「障害者ライダー」は普通のライダーであること。個人の努力はまた別の話。これをすり替えてはならないです。

今年の「バリアフリー新法」により、社会は、駅や公共施設、その周辺、乗り物自体のインフラ整備が急ピッチで進んでいます。皆さんが主要な駅、ホームで工事を見かけることも多いのではないでしょうか?

バリアフリー化とは障害者マークを増やすこと、一歩踏み込んだユニバーサルデザイン化とは障害者マークを減らしてゆく方向です。つまり障害者に優しいモノはお年寄りは勿論、全ての方にやさしいということです。何もかも便利になり人の心から「やさしさ」が消えたら元も子もありませんが・・・・。

■人は小指の先をナイフでちょっと切っても痛いものです。その痛みを他人の心に映してみれば、同じ障害者でも、バイクに乗れない重い障害を負った方の姿も浮びます。
本来我々ライダーには「障害者」などという冠はいらない、好きで負ったわけでもない。
中身の無いヤツは型(外側)を求める

障害者ライダーは、特別なライダーではありません。
特別にしたい方もおられますが、障害者の自動車ドライバーって特別ですか?そうじゃないでしょう。

(ここからは一般論)最近、障害者が何かをして、何かをアピールすることの本質がズレている気がします。一体何を世間にアピールするのか明確な提示がない、障害者雇用機会均等法を広く周知するとか、ある難病の法的な支援なのか?施設への援助なのか?海外への援助なのか?その遂行の為の資金集めなのか?その資金を得る為に、自ら行動して、時に、見世物パンダになり募金を集めるのなら理解も出来るが、自分の行動の為に、自らが募金の、或いはスポンサーからの受益者になるパターンが最近目立つような気がする。これは明らかに論理のスリ替えであります。 というより金や名誉欲の上に作った論理としか思えません。
これでボランティアと言われると、なるほど「日本の障害者は程度が低い」と言われることにうなづけます。
自分が目立ちたいだけじゃないですか?あんた自身をアピールしたいだけ?
日本テレビの「24時間TV」はよく文化人に批判されるけど、目的と、その達成度を明確な金額という形で現れることにおいては充分に評価判断は出来る。勿論、金額が全てではないのは当然のことであるにしてもだ。
ここで反論で予想される「何もしないよりはいい」という意見は賛成でありますが、偽善者ぶって金を自分の為に集めるとか、福祉だボランティアだってのは個人の意見として反対であります。
障害者の行動全てが、アピールだの問題定義だというのは窮屈すぎると思います。

■いつかバックミラーを見る余裕が出来れば、つい見逃してきたことも発見出来るかもしれません。それで何か出来ることを考えるとすれば、障害者全体の利益につながることが出来ればいいと思います。何度も書いてますが「障害者ライダー」なんて小さなワクで考えても小さな考えしが湧いて来ません。バイク事故頚椎損傷をおった方もライダーだし、いつかまた、復帰を狙っている方もライダーです。「障害者ライダー」の矜持というのはここですね。そういう、言わばユニバーサルデザイン化されたHEART を持ったライダーを目指しましょう
その心が有れば型はいらない。

スピリット(精神):バスケットボールが有り、車椅子バスケがある。マラソンも同じ、登山も同じ、バイクにも色々ある。スピリットは同じ。バスケ選手が車椅子バスケを「それはスポーツじゃない」と絶対に言わないでしょう。バイクも同じにしましょう。 貴方が他の障害問題に興味がないのなら、免許センターの係官が障害者の免許に理解がなくても文句を言わないことです。


****************************************
手元に松田宏也著「手と足よ、僕はまた登る」 1988年発行(絶版)がある。事故後の私を勇気つけた一冊です。両足膝下と両手の指を凍傷で失くし奇跡の生還とその後です。彼は「身体障害者」ではありません。「登山家」です。その意思が込められた1冊です。自らを障害者の看板で隠してはいません。山という大自然に対してあくまでも、謙虚であり、自分を大きく見せたところで何も役に立たないという姿勢じゃないでしょうか?そして一度敗れても何度も挑戦出来ることも示してくれます。

JDRAの目的も同じ「俺は障害者だ」というライダーを、その信念において作らないことです。公道を自由に走ることが真の目的とするならば、常に、スピード・社会に対して謙虚で普通でありたいものです。

下記の掲載から2年経ちました 【毛利】


http://www.synapse.ne.jp/~tosichan/syogai.html

筋ジストロフィーという難病の方で既に故人ですが、活発な意見を述べられていた轟木さん(NNKでも放送)という方の障害者論が上記URLで今も拝見できます。障害者自ら小さな「枠」を作らないことです。どんな障害で、どんな免許で、どんな形式のバイクに乗ろうなんてのは本当にどうでもいいことなんです。そんな事は個人のこだわりに過ぎません。

誰もが「普通にさえ」生きるのが難しい現代に、何か特別な生き方をしなければ人生に意味がないと暗中模索する人も多い。だから、障害者がバイクを乗ったくらい「何か目標に向い頑張ってる」って輝いて見えるってこともあるだろう。 そんな「スゴイ」は錯覚なのだ。我々にしてみれば本来「障害」なんて関係ないことなのだ。私から見ればそういう見方(障害者を美化・聖化)も気持ち悪い感じがします。
障害者がバイク乗ってスゴイことではありません。普通。


一番大切な事、英国のNABDの主題でもある「indepedent」【自立】である。要するに精神的自立こそが大切なことであります。自立たって、一人で誰の助けもなく自活生活することではない。

大切なことは自分で決めて、自分で責任を取るということなのだ。



平成16年10月21日


今、必要なものは運転についての客観・厳正な評価

先の目標は、全国各地で自らの力で免許を取得出来る環境を皆さんで作って頂くことです。

各方面に折衝しておりますが、全体の流れは下記に転載させて頂きました自動車の流れをフォローするものです。一朝一夕にはいきませんが各自の安全運転の積み重ねと努力が重要です。その情報流通の円滑化です。


種を蒔いて芽が出るのに時間が掛かることもあります。どうか御協力を下さい。
協会は圧力団体ではありません。仮に圧力で免許を取り事故をした場合は当然その圧力者の責任になります。また我々は全国津々浦々ボランティアで圧力行脚に行くことも到底出来ません。いけない所はより以上不利になります。また今後に続く方の為にもなりません。


では最善・最短の道は何か?


それは自動車教習所の受け入れ態勢を広める事以外にありません






        
協会として直面している問題は下記の二つだけである


@【適性検査における問題】
例えば免許既得の方が脊椎損傷の障害者になられた、普通車は条件変更でそのまま、自動二輪免許は実車がないと適性が分からないという場合が多い、何故か?現在まで客観的で厳正な評価がない為である。

●障害部位が同じでも個人の能力の幅(差)が広い、普通車と違い油圧補助装置も少ない。
●現在乗っておられる方の身体データと受験者の数値データ比較が出来ない 握力・腕力・乗降性など
●公認教習所の受け入れが少ない為データがない。。
●実車が現場に無い為に簡単な判断出来ない当局側の常識的な思い。
●情報流通の円滑と身体障害者運転の本当の理解を広める事
●障害者受験側の準備不足もある。
社会的公共性に乏しい


A【試験方法など】

●サイドカー条件による試験方法などに対して柔軟な対応が必要。
●情報流通の円滑と身体障害者運転の本当の理解を広める事。
●障害者側の準備不足もある。
障害と免許




下記に同じ主旨の文章の転載許可を頂きましたので一読下さい

「今、求められるものは運転についての客観・厳正な評価です」
身体障害者の熱意によって確立した免許制度と求められる社会環境の整備
遠藤 光二〔国立身体障害者リハビリテーションセンター自動車訓練室長/厚生技官〕

【原文のまま転載、赤字はJDRAで強調】
【1998年の論文ですので、以後法律改正・社会情勢で環境は変化してますが、2輪車よりも先行している点で参考に】



 
以下原文のまま

■国立身体障害者リハビリテーション 自動車訓練所の概要
今日、身体障害者用の自動車は、大きく分けて「障害者自らが運転する車」と「輸送(送迎)用の車」に分けられる。埼玉県所沢市にある国立身体障害者リハビリテーションセンターの自動車訓練室は、前者の「障害者自らが運転する」ための訓練施設である。基本的な流れとしては、センター入所者、及び入院患者の訓練希望者については静的評価と動的評価を行い、これをもとにした個別訓練、個別指導が大きな特徴になっている。具体的には常備訓練車両の中から残存機能を補うベース車両の選択を行い、これにさまざまな運転用補助装置を選択している。これで本質的に残存機能を補えない場合は訓練生に助言を行い、クルマを購入(持ち込み車両)してから訓練は始まる。この個別評価・個別訓練等にこだわるのは、クルマに乗れば「1人のドライバー」として自主自立してほしい、十分に車を使い切ってほしいとの考え方によるものである。同施設からは昭和36年に訓練を開始してから延べ3,800人もの訓練生が車社会に参加している。


●身体障害者にとってのクルマとは、 完全に日常生活に融合
身体障害者にとってのクルマは、完全に日常生活の一部となっています。身障ドライバーは、クルマを「日常生活に」「通勤・通学に」「レジャーに」と、さまざまに活用しています。公共交通機関が利用しにくい身障ドライバーにとっては、ドア・ツー・ドアの至便性に加えて、自分が高速で移動でき、また荷物を一緒に運ぶことができるという利便性も評価されています。東京に在住のある身障ドライバーは岡山・広島近辺まで土産品をどっさりもってクルマで出かけていくそうですし、身体障害者、とりわけ移動障害者にとっては、スピードの上で健常者と同じ土俵に立つことのできるという点で、クルマという存在がより付加価値のあるものと映っているようです。
 この身障者にとっての良いクルマとは安全・快適機能、衛生・健康機能の諸条件を満たしていることです。安全とは巷言われている衝突安全性能等ではなく、もっと初歩的な残存機能の範囲で随意に操作ができ、クルマの性能を引き出し、制御ができること。また、衛生とは障害特性に対応した運転疲労の緩和、失禁対策等が施されていることです。これには姿勢制御が大前提になるので運転座席のウエイトが高いと思います。と言っても運転能力は健常者と同様に千差万別、物では障害を補えないこともあります。例えば夜間視力の弱い方には夜間や降雨時の運転は控えるように助言をしています。いずれにしても健常者と比べてキャパシティは小さいのでベース車両の選択は重要な課題です。


●身体障害者が運転をする歴史的な始まり

 思い起こせば、戦前には、身体障害者は制度的には運転免許は取得できない時代もありました。昭和30年初期には、三輪車に50ccのエンジンを載せて改造した車両に乗る者がわずかながら存在し、昭和35年の道路交通法第88条の施行により、身体障害者の中の相当数の者が、法律に基づいて免許の取得ができる道が開かれました。当初は、排気量ならびに重量も規制がありました。
 身体障害者の運転免許取得には「身体障害者からの熱烈で根強いニード」「身体障害者自身の免許取得までの忍耐力」「身体障害者自身の慎重な運転実績」「公安委員会等の行政側の理解」「運転しやすい自動車と運転用補助装置の開発普及」「教習所の受入体制の普及」、そして「社会の理解と普及」の結実の賜物といえるでしょう。  以後、幾度かの規制の緩和を経て、昭和57年には両上肢障害者も、免許を取得できるまでになりました。


●健常者を前提としている運転免許試験場と教習所の受入体制
残念ながら、これらの施設は、健常者を主体とした集団的・大量的・画一的に営まれるシステムであり、障害特性に対応したサービスはできにくい環境です。設備面・指導者面においても、同様のことが言えるでしょう。
われわれの行ったアンケート結果からは、次のようなことがわかりました。
【試験場】
 装備面では運動能力判定機と、ごく普通の車両に運転用補助装置を後付けした障害者用の試験車両が36施設で使われています。この装備で運転の動作だけを試してみるだけでは、実際の運転能力があるのか、ないのかの判定は正直いって下せません。自動車の運転とは、認知・判断・操作といわれています。別の言い方をすると色々な情報を知覚し判断、決定し、推論し、ときには記憶し、それをベースに交通場面に応じた適切な運動を選択しクルマに働きかける一連の経過を評価するシステムはなきに等しいと考えています。実際にクルマの運転を希望する方の障害程度は、千差万別ですから、物的条件面を補完できる意味で、車両を持ち込み適性試験等を受ける「持ち込み車両」の必要性も出てきたわけです
【教習所】

指定自動車教習所の障害者用の教習車両も、ごく普通の車両に運転用補助装置を後付けした教習車が197校の施設で使われており、410校の施設では常備車両はないが障害者を受け入れていることがわかりました。ただ、これは試験車両とも同様ですが、健常者の運動機能をベースに造られた車両に両下肢障害者用の手動装置や右下肢障害者用の左アクセルペダル等を増設して、単に「操作方法の変更 」をした程度の車両では、障害内容を補うことはできない場合があるのです。なかなか難しいことですが、科学的な受け入れ方法、評価体制を整え、身体障害者の受け入れで得たノウハウを高齢者や健常者に応用していいのです。「持ち込み車両」も、広く一般教習生にも可としていいのです。また、そうしないと、ビジネスとしても苦しくなってきます。
現状では営業的には魅力が少なく、何かと困難が予想される中で、一部自動車教習所においては積極的に障害者を受け入れている所もあり、それについては、真摯に感謝すべきでしょう。
当訓練室は、訓練とは体得させるもの、との考え方に立ち訓練と指導の違いを明確にしています。それは実車訓練のカリキュラムにも現われ、訓練生の特性(人間と障害の意味)をベースに、やさしい課題(低速域)から難しい課題(高速域)に変化させていくように作られています。別の表現で言えば、サービスの受け手の立場を中心に訓練プログラムを構成しているのです。これが個別評価、個別訓練の行き着くところです。


●求められる身障免許取得希望者への客観的な評価
障害者プラン〜ノーマライゼーション7か年戦略〜によると、「指定自動車教習所に対して身体障害者用教習車両の整備や改造を行った持ち込み車両等を使用した教習の実施等、必要な指導を行う」「運転免許試験場に身体障害者用の技能試験車両等の整備や持ち込み車両による技能試験の実施を行うとともに、手話通訳員の配置、身体障害者用トイレの整備、字幕スーパー入りビデオの活用等を推進する」「各都道府県警察に運転適正相談室の設置、資器材の改善、運転適性に関する知識の豊かな適性相談員の配置等を推進する」となっています。今後、このプランが推進されていくことを切に希望します。
 今後、障害者で運転を希望する者は、ますますその数を増やしていくものと思われます。その障害者をサポートする方法として「残存能力の適切な評価」と「個別に必要な規制、または助言」ができるシステムの構築と普及が求められるでしょう。もちろん、評価の段階で車の運転には不適との結果が出る場合もありますが、客観的な評価こそが、今、求められているのです。


●これからも増える中途障害者への対策も急務
 近年では、事故や疾病などで中途障害者が増えてきており、免許既得者が障害者となり、免許条件が付加される場合も多くなるだろうと思われますが、この場合の再教育や運転用補助装置についての情報提供等はほとんどありません。身体障害者の新規免許取得者は少子化の影響で減っているのですが、中途障害者はデータでみても増え続けているので、こちらも対策が早急に望まれるところです。


●ユーザーである身体障害者にもっと情報提供を
市場も小さく、大量生産システムにはなじまない身体障害者用の市場ですが、最近では、一部のメーカーが「自社製の車に適合した運転用補助装置」、例えば身体障害者用の運転座席等を開発し、その極めて少ないユーザーである身体障害者ドライバーに提供していることは、嬉しいことです。またあるメーカーでは、開排位の姿勢(足を交差させてアグラをかく姿勢)が作れる手動装置も開発済みで、下肢の筋肉にケイレン(痙性)がある運転者には安全で乗りやすいクルマができたと思います。あとは、細かな事柄の情報提供を進めていただきたいということですね。例えば、主装置の操作力がどのくらいであるかを数値を教えていただきたい。それを目安に身障ドライバーは、自分がこのクルマを運転できるかどうかの判断基準とします。今までは口コミが主な伝達手段でしたので。


●情報流通の円滑と身体障害者運転の本当の理解を

周囲の方々への、
身体障害者の自動車運転に係わる基礎的教養の普及がまだまだ必要であるということが言えます。この場合の周囲の方々とは、教習所の教官、試験場の試験官、ディーラーの営業スタッフ、メーカーの開発者、リハビリテーションなどの医療関係者、福祉関係者などです。当訓練室では外来相談もしているのですが、指定教習所で免許を取ってきた障害者の方で、「どう考えても運転は不可能である」という結果が出た方もいます。この事例は適性試験の段階で現時点では否の判断をすること。また受け入れた教習所側としても再度適性相談を受けるよう調整を行う必要があったはずです。なぜなら、これらの施設は選別機関であり教育機関であるからです。
 それと、身体障害者で運転をする人々の中には、運転補助装置を適正に使っている人が、意外に少ないことに驚きます。理由を聞けば回答は3つに分かれます。ひとつに教習所で使っていたから。次に身体障害の友人が使っていたから。最後は買ったらディーラーの方で付けてくれたからと。これは根が深い問題です。ここでも情報伝達の少なさが問題になっています。
 日本でもようやく「バリアフリー」「ノーマライゼーション」という事柄が注目されてきましたが、この進展を慎重に見守っていきたいと考えています。




*********************************
【出典】社団法人 日本自動車工業会(略称:自工会)
JAMAGAZINE 1998年5月号
特集/日本の交通環境とバリアフリー

********************************
2004`10-21       転載許可済・ありがとうございました。

上記に書かれた事はそのまま二輪車にも通用します。要するに、皆さんの情報を一箇所に集めれば出来ることなのです。協会なんてものも要らないのです。


日本障害者ライダーズ協会

日本障害者ライダーズ協会のトップページへ